謎の山城、郷分青ヶ城跡

福山市郷分町に「青ヶ城」と呼ばれる山城跡がある。

山陽自動車道を福山東インターから広島方面に行くと、芦田川を渡って直ぐトンネルに入るが、トンネルの直ぐ上の山がそれである。

登山口は、山頂の南山麓にある。郷分から「八反田」へ登る道が、いよいよ九十九折となる手前あたりに草に埋もれた山道があり、この道を、息を弾ませながら登ると山頂直下の「狐平」と呼ばれる平地に出る。約3反ほどの広さで、よく見ると崩れた土塀の跡や生活用品が散乱し、4・50年前には人が住んでいたようだ。

城跡は、この平地を西から北に回って東の尾根まで、曲輪の跡が連続し、東西に曲輪群を守るように大規模な「堀切」が残り、ここが確かに中世の山城跡であることを教えてくれる。規模は東西約四〇〇メートル、福山市内では大規模な山城跡だ。だが、規模のわりには、城の来歴がはっきりしない城跡である。

郷分青ヶ城と皆内氏

城主については、『備後古城記』『備陽六郡志』『西備名区』などに皆内氏の城とあり、一番詳しい『西備名区』は、青ヶ城を堺山城とも言うとして、皆内出雲守兼景入道、同出雲守兼綱を城主として書き上げ、大内家の「郡代」で、天文の初め、安那郡竹田の大内山城より「城築て移」ったとある。

同書の安那郡下竹田村大内山城の項を見ると、「家市」出雲守景兼、同式部大輔を城主として挙げ、大永の比居城し、後に郷分村に移ったとある。同書の著者も「郷分村城主皆内と称す、名は兼景とあり。何れ誤りあるべし」と述べ、「家市」「皆内」はどちらかが誤ったものであろうとしている。

それにしても「大内家の郡代」とは、いかなる地位を意味しているのであろうか。大永から天文にかけて、付近一帯は神辺城主山名氏の支配下にあったと考えられる。特に天文年間の山名理興の時代、東は井原市の芳井から西は山手・赤坂まで理興の勢力が及んでいた。皆内氏は、大内氏からこの理興の与力として派遣されたのであろうか。ただ、当時の史料には皆内氏の名は一切現れない。

厳然と残る城跡と史料に見えない城主、謎は深まるばかりである。

  資料
      備陽史探訪
      (田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)

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山の頂上付近が
青ヶ城跡

皆内家過去帳 皆内家の資料より