境内入口
右手の茂みの中に石鳥居が隠れていました
「石鳥居」を掲載します
県道104号線からの神社
離村された氏子さんが神社の掃除をされていました。
話を聞くと、現在この地区は過疎化が進み氏子さんが激減しているそうです
神社全景
本 殿
拝殿からの注連柱
注連柱と拝殿
参道の中間付近、180度の急カーブ
「深安神社めぐり」の 12 番目の神社
地 図
拝殿前
拝殿前は、かなり狭かったです
拝殿上がり口
【所在地】
広島県福山市山野町大字矢川148
【祭神】
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
【例祭】
十一月二十三日(旧例祭日 旧暦十月十五日)
【由来】
保安年中(一一二〇〜四)、宇佐神宮より勧請したと伝えられる。古文書(文政二卯年三月、上下御役
所へ差出した書面)に、保安三年(八七二年前)豊前国(現在の九州大分県)宇佐八幡宮の俗神主、民
右衛門という人が村内の民助という人の家に逗留していて、翌年の保安四年元日、宇佐八幡宮が鎮座
されたとの霊験を得て祀ってから正八幡宮と申してお祀りしており、安永三年京都吉田家(明治時代に
な るまで神主の許認可の役目をしていた)へ出向いて、「正八幡宮」という神社名の許状を受けて
いると書かれている。また、安那郡社領寺領を記したものの中には、寛永十六年卯三月御老中さま
扱処に宛て、八幡宮は何れの時代に御建立ともよく分からないが、社領3貫七拾弐文を賜っていた。
毛利殿の時代より、社領はなくなったと記されている。明治時代に入り矢川村社となり、次に山野村社と
なり塩川明神を除く社祀を合祀した。その後笠堂を建立して、境内の公園化もされていた。今は
栂(とが又は、つがともいう)の大木と古杉が、時代のゆく先をじっと見おろしているようである。
広島県神社庁 深安二十六社神社めぐりより転記||
2019/02/07 更新
過疎とは、「開発の遅れた農山村において、急激な離村、離村が進んだ結果、地域の人口が減ってしまうことで、その地域で暮らす人の生活水準や生産機能の維持が困難になってしまう状態」というように定義されます。また、過疎化が進むことによって、地域生活条件を縮小させなければならなくなり、更に生活がしにくくなるという悪循環を伴います。
政府の「地方創生」政策がこの村に早く届く事を願います
注連柱の前を直進すると、急な階段を使わないで参拝が出来ます
:県道104号線沿いの標識
標識に従って市道を進むと山肌に次の標識
ここから徒歩で参拝