坪生(新中)八幡神社(つぼうはちまんじんじゃ)

史跡・名所

  所在地  広島県福山市坪生町
通称は新中八幡神社と称される。この地は坪生荘といわれ、中央の権力者藤原氏の領有となっていた。その範囲は坪生、大門、引野、野々浜、津之下、宇山、そしてお隣、笠岡市の有田、篠坂など6か村もその範囲にあり40ヶ村を数えたという。戦国時代になると坪生荘は神辺城の支配下にあった。神辺城を手に入れた大内氏は引野、能島、大谷、津之下、野々浜を分割して小早川隆景に与えた。これを五ヶ荘という。それまで坪生荘40ヶ村の総鎮守として祀られていた新中八幡神社であるが、天文7年(1538)秋荘園内の各村の代表が集まって祭礼を行う協議が行われた。しかし、異論が相次ぎ、各村は坪生から別れると主張し闘争となってしまった。各村はご神体や神宝を奪い喧嘩別れになったと伝わる。支配が変わり、各村の力関係に不具合が生じたのだろう。新田開拓が盛んに行われた引野あたりは生産力が上がり急激に力を付け発言力も増していったのだろう。ご神体は大門が持ち帰り、のちに五箇宮八幡となったという。これが現在の大門八幡神社である。以来、新中八幡神社は坪生町江戸野地区の氏神となり坪生ニュータウンの東の山裾にひっそりと祀られている。かつての大社の様相は残念ながら無い。

新中八幡神社の社殿であるが、本殿は一間社流造。妻側は板が張られ保護されていて細部まで見ることは出来なかった。身舎柱は正規の円柱が使われる。頭貫下には長押が回され柱上は三斗組で桁、梁を支える。軒は二軒で向拝柱とは海老虹梁で繋がれる。虹梁型の頭貫で固められ、柱間は蟇股が飾られる。垂木は手挟みが支えている。縁は三方を廻り後ろは脇障子で止まる。
参考:平井隆夫著「おもしろふくやま史」、広島県神社誌
  mixi 備後の歴史を歩くコミュの坪生八幡神社より


住宅街の市道沿いに大鳥居と新中八幡神社の標識
 市道沿いには「県境の道」の説明板も立っていました


大鳥居
 大鳥居からの参道
 拝 殿
 新中八幡神社の説明板
 拝殿内
 本 殿
 神社全景

保護のため建物全体が板で囲まれていました
 拝殿前からの大鳥居




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