2019/01/11 更新
大鳥居横に「百度石」その後ろには、「右石州ぎんざん道」「左九州をうくわん」の道標が移設され建てられています。そのよこにも「右かさをか道」「左かみがた道」の道標が建っています
拝殿前の狛犬
参道の石燈籠
注連柱からの太鼓橋と市道を挟んで境内の大鳥居
本殿の両側には参道階段があり、奥には沢山の境内社が鎮座していました
境内東からの景色は絶景でした
境内入口からの参道
境 内
本殿前の狛犬
左の狛犬には玉を登ろうとする子狛犬がいました
大変珍しいです
本 殿
大鳥居からの拝殿
太鼓橋前の手水舎
この道を西に徒歩で五分位行くと備後國分寺が有ります
【住所】
福山市神辺町下御領一〇七三
【祭神】
誉田別命、息長足姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵姫命
【例祭】
十月第一日曜日(旧例祭日 旧暦十月十五日)
【由来】
天平年中(七二九〜四九)の創立と伝えられ、宇佐八幡宮より勧請し、国分寺の鎮守社であった
という。応仁の乱(一四六七〜七七)後社殿大破し、山名宮内少輔忠勝が永正年中(一五〇四〜二一)
本殿及び拝殿を再造立して社領二十貫を付けた。その後、天文年中(一五三二〜五五)、大内家臣、
宍戸安芸守隆家が当社背後の茶臼山に築城し、当社に武運を祈願したという。永禄元年(一五五八)
杉原氏が神辺城主となると家臣菊池肥前守がここに在城し、武運を祈願して戦功があり、永禄五年三月
、毛利元就の命により国分寺と共に当社を杉原盛重が修復した。永宝元年(一六七三)五月十六日
大水害により社殿大破し、貞亨三年(一六八六)福山城主水野氏の命を似て大修復した。その当時の
棟札が現存する。大正十年本殿を大修理、昭和三十五年拝殿を再建する。御祭神の応神天皇
(誉田別命)は第一五代の天皇。神功皇后(息長足姫命)はその母君で共に日本の国家形式を確固
たらしめ、大陸文化を輸入し、日本文化の興隆をはかられた。
広島県神社庁 深安二十六社神社めぐりより転記||
「深安神社めぐり」の21番目の神社
神社全景
参道入り口の注連柱と大鳥居
市道からの参道入り口に、「深安神社めぐり」の看板
左 : 拝殿内
右 : 拝殿内からの本殿
境内前の注連柱